インドネシア バリ島とロンボク島 ('99.4.24〜5.1)

 

空が薄暗くなり始めたころバリ空港に到着した。空港はオレンジ色の瓦を使ったバリ風の寺院を思わせるしゃれた建物だ。ほとんど計画も無くバリへ来たのでホテルの予約もない。早速ホテル探しをしなければならない。とにかくタクシーで町の中心まで行きそこで探すことにしたが、すでに外は暗くなっており、初めての土地で一帯どこにホテルがあるのかさっぱりわからない。バリの町はリゾート地だからきれいな落ち着いた町かと思っていたらまったく違った。雑然としてやたら人が多くちょっと怪しげなところもあり多少不安になってくる。
やっと海岸どおりのホテルに宿を取ることができた。

 

朱色の瓦を使ったバリの建物

 

フェリー港のある漁村

バスはクタを出発するとサヌールからバリの中心デンパサールを抜ける。デンパサーを出ると景色は急に田舎になる。 およそ2時間ほどでフェリーの港に到着する。ここからフェリーでロンボク島に渡る。

フェリーに乗りこむとすでに客室は満員だった。仕方なくデッキに上がった。景色はいいが照りつける太陽は強烈だ。それでも満員の客席よりはましと思い結局デッキの席に座ることにした。 フェリーはバリ島を離れロンボク島を目指して動き出した。バリ島が次第に遠ざかるにつれ島全体が見えるようになる。あいにくアグン山は頂上に雲が多く、雲の間から時々顔を出すだけで全体を見ることはできなかった。

 

遠ざかるバリ島

 

 

帆にいっぱいの風を受けて走るロンボク島の船

バリ島とロンボク島の間には有名なウオーレス線が有る。今回の旅はこのウオーレス線をまたいでバリとロンボクの違いを見ることもひとつの楽しみだ。 3時間ほど紺碧の海原を進むと前方にロンボクの島影が見えてくる。 島全体はバリ島と違って比較的起伏が少なく海岸線にはほとんど集落も無い。港に近づくと対岸には長い砂洲が続きその内側は湖のように見える。港が近づくにつれ漁船の数が増えてくる。漁船といっても一人か二人乗りの小さなアウトリガー船で、小さな帆で走る。

ロンボク島の中心マタラムで一泊し翌日2時間ほどでクタにあるマタハリロッジに到着した。 マタハリロッジはクタでは最も設備の整ったロッジで、建物は長屋風の平屋と二階だてが庭を挟んで並んでおり、各部屋の前は熱帯の樹木が植えられ、各部屋は独立した家のような感じがする。 受付で早速宿泊の手続きを済ませ部屋へ向かった。案内してくれた青年はリキさんといい日本語がかなりしゃべれる。部屋はキングサイズのベッドがあるこじんまりした清潔な感じがする。設備は洗面と水洗トイレと水シャワーがあり、1室9万ルピアである。

 

白砂の続くタンジュンアンビーチ

 

さんご礁が作り出す色のグラデーション

ロッジからタンジュンアンビーチまで行く車が出るというので早速着替えて車を待った。同じバスで来たカナダ人女性2人とスイス人グループと一緒に小型のライトバンにのり海岸へ出発した。
砂浜に出ると真っ青な海が広がる。あまりの透明さに、海底の変化がそのまま海面の色の変化になりとても美しい模様を描いている。
この海岸はリーフの中にあり波はほとんど無い。砂の色も全く混じりっけの無い象牙色をしており、粒が細かいので砂の上を歩いても足が砂に潜る事も無い。

 

透明が作り出す陸と海のさかい

 

谷川のように澄んだ水が流れる川

この砂は浜の中ほどに流れ込む川から運ばれるもので、河の水もまるで谷川の水のように透明で美しい。ここにはほとんど汚れというものがない。
ロッジに戻り水シャワーでほてった体を冷やし夕方クタの海岸へ散歩に出かけた。 海岸には小さな漁船がたくさんあり、いかにもひなびた漁村のたたずまいである。
そろそろ戻ろうとしたら二人ずれのインドネシア人の青年が声をかけてきた。話をしていると一人は有名なホテルの従業員でこれまでに数ヶ国のチェーンホテルで働いてきたという。いま日本人の若い女性と交際中でちかじか6人目の奥さんになるといっていた。そういえばホテルの従業員も日本人のガールフレンドがいるといっていた。

 

ロッジのあるクタの海岸

 

胸まで使って魚を釣る漁師

朝近くの市場でつりエサにするイカを買ってタンジュンアンビーチへ向かった。今日はカナダから来た女性二人のうち一人がロッジで休むというので2人だけだ。 砂浜のはずれにある少し岩の多いところで早速つりをした。遠浅のため海の中に入り竿を出すとすぐ当たりがある。5センチから10センチくらいの小魚が次々につれる。
バリに戻りウブドのホテルの部屋の前で朝食をしていると、ホテルのオーナが日本語で話しかけてきた。これからバリを案内してくれるという。 今日はこれから葬儀があるというので一旦オーナーの家へ行き葬儀の終わるのを待つことになった。 バリの民家は家の中にも立派な神社がある。 家のつくりも大変豪華で扉や壁などには手の込んだすばらしい彫刻が施されている。

 

バリの民家には家の中に立派な寺院がある

 

棺を運ぶバリの霊柩車

インドネシア独立戦争で戦った仲間の葬儀で、葬儀会場に入ってもいいというのでバリの葬儀を見せてもらった。 バリの葬儀は日本の葬儀のようにあまり暗い印象はない。もちろん家族や友人の悲しみはどこも変わらないが、もし日本人が葬儀であることを知らなければお祭りと間違えてしまうだろう。バリはヒンズー教のため死に対する考え方は仏教徒である日本人とは違うのかもしれない。

バリの農村は日本の農村風景に良く似ている。でも田植えの横で刈り取りが行われていた。

 

バリの農村風景

 

美しい幾何学模様の棚田

ウブド郊外には日本にも昔は山間部でよく見られた段々畑がある。日本の農村は最近では山間でも機械化が進み美しい幾何学模様の段々畑は消え、真四角に区切った水田ばかりになってしまった。ここの棚田は観光の大きな目玉になっているだけにその規模も大きく、また政府も保存のため力を入れているため見事な棚田である。
ベサキ寺院はバリの寺院の総本山でアグン山の中腹にある。 ヒンズー教徒以外が寺院に入るには腰に布をつけないと中には入れないので寺の外から眺めるだけにした。寺院は山の斜面に幾つもの石造りの伽藍が立ち並び全体はかなり広い。ベサキ寺院は1000年以上の歴史を持ち、建物は島内で唯一玄武岩でつくられており、黒一色の寺院である。

 

バリ島最大の寺院であるベサキ寺

 

キンタマーニ高原

ベサキ寺を後にキンタマーニへ向かった。キンタマーニという名前は日本人には奇妙な名前だが、バツール山一帯の高原地帯を指す名前である。 車はバツール山の展望台へ到着。車を降りるとここが赤道直下とは想像もできないほどの冷たい風が吹き付ける。 展望台からは正面にバツール山が聳えその下に大きなバツール湖がある。バツール山は標高1717メートルの活火山で80年ほど前に大噴火をしたという。今も斜面の所々から蒸気が立ち上っている。
湖の対岸にはポツンと小さな部落がある。湖に閉ざされ全く孤立した村で船しか交通機関がない。この島では独特の風習があり。今でも人が死ぬと風葬にするそうである。

ウブドへ戻る途中祭りの行列に遭遇した。民族衣装をまとった男女の長い行列が続いた。バリでは毎日どこかで祭りが行われているという。高度な芸術の数々や祭りの多さ。これほど豊かな文化をなぜバリの人たちはつくりだすことができるのだろうか。

 

祭りの行列

 

バロンダンス

一斉にガムランの演奏が始まり中央の中われの門から美しい女性が現れた。黄色のバリのきらびやかな衣装をまとい、ガムランの演奏に合わせ踊り始めた。バリダンスは顔の表情や手の使い方の表現力が優れており足の先から指の先まで使って表現する。ときには大胆な動きを見せるかと思えば時には繊細な動きを見せる。日本の踊りはどちらかといえば繊細さは有るが動と静といった変化や顔の表情の変化に乏しいような気がする。むしろ歌舞伎にちかいのかもしれない。
デンパサール市内にある博物館の2階にはバリの代表的な作家の絵や古い絵画など、興味深い絵画が沢山展示されている。また中央にはバリダンスでたびたび登場したバロンなどの民芸品が展示されている。 下の階には黒檀などの見事な彫刻が展示されている。バリの彫刻は立体的で細部に至るまできわめて精巧に彫られている。どうやって彫ったのかと思うようなすばらしい彫刻ばかりで、その芸術性には見ていて飽きないものが有る。

 

見事なバリ美術の展示された博物館

 

海岸に立つタナロット寺

タナロット寺院はデンパサールから東へ数十キロ離れた海岸の小島に立つ小さなヒンズー教のお寺である。 寺院へ行こうと階段を上りかけると突然呼び止められお祈りをしろという。すでに何人かの人が祠から流れる清水で口をゆすぎ手を洗っている。言われるままに水で口をゆすぎ手を洗うと額に米粒をつけてくれる。ヒンズー寺院でよく行われているのと同じである。最後に多少のお賽銭を払いこれでOK、と思って階段を上がろうとしたら立ち入り禁止の看板があった。
夕方になり出発の時刻が迫ってきたのでクタの海岸に戻り2日間バリ島を案内していただいた御礼にレストランでささやかな夕食会をしたあと空港で最後のお別れとなった。 偶然出会っただけなのに高齢にもかかわらず2日間バリ各地を案内してくれた親切なコチさんともこれでお別れである。ぜひ元気なうちにまた合えることを願っている。

 

出発までの時間をクタの海岸で過ごす

山と花のアルバム  
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